マッターホルン/Matterhorn(4,478m)
マッターホルンとはドイツ語になり、イタリア語では、チェルビーノ、フランス語では、モン・セルヴァンと呼び名が変わるアルプス山脈の山。
標高・4,478m
スイスとイタリアの国境に位置し、スイス側にはツェルマット、イタリア側にはチェルビニアの町がある。マッターホルンという名称は、ドイツ語で牧草地を表す「matt」と、山頂や角を表す「horn」に由来している。
地形と地質
山体はピラミッド型で4つの斜面があり、東壁の高さは1000m、北・南・西壁はそれぞれ1200m・1350m・1400mほど。東壁と北壁がツェルマットの町から見える。傾斜の激しい斜面では、氷雪はわずかに残るのみである。雪は雪崩を起こして滑り落ち、場所によっては氷河を造り出す。アイガー、グランド・ジョラスとマッターホルンの切り立った北壁を三大北壁と呼ぶ。
基部は堆積岩であるが、山体は片麻岩で形成されている。2億年前にパンゲア超大陸が分裂し始めた時に、ゴンドワナ大陸のアフリカ部分として残ったアプーリア・プレートが、1億年前に同大陸から分離し、ヨーロッパ大陸方向へ移動して、アルプス山脈を形成したアルプス造山運動により、ヨーロッパ大陸に乗り上げたナッペと言われる地質構造を示す。山容はその後の氷河の作用で形成されたもので、こういった地形は氷食尖峰と呼ばれる。
登山史
マッターホルンが制覇されたのは、アルプスの他の山々と比べれば最近のことである。これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということを、初期の登山家達が恐れたからであった。マッターホルン制覇の試みが始まったのは1857年ごろで、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。しかし、イタリア側の登山路は険しく、多くの登山隊は岩壁を攻略できずに退散し 数回の失敗と民族主義的な中傷を受けつつも、1865年7月14日、エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロッツとタウクヴァルター父子をガイドにして登頂に挑戦し、初めてこれに成功した。このとき選んだヘルンリ尾根を通る登山路は、意外にも他のルートより平易であった。下山中、ハドウの滑落にクロッツとハドソン、ダグラスが巻き込まれ、これによりザイルが切断され、4人は1400m下に落下して死亡した。発見されなかったダグラス卿を除く3人の遺体はツェルマットの墓地に埋葬された。
3日後の7月17日、ジャン・アントン・カレル率いる登山隊がイタリア側からの登頂に成功。1868年にはジュリアス・エリオットが自身二度目の登頂を果たし、同年ジョン・ティンデールは二人のガイドとともにマッターホルン縦走に成功した。1871年、ルーシー・ウォーカーがライバルのw:Meta Brevoortに数週間先だって女性初の登頂を成し遂げた。1923年には日本人として麻生武治が初登頂を果たした。
その他の主な登頂歴
- 1879年9月3日、w:Albert F. MummeryらがZmutt尾根から登頂。
- 1931年8月1日、トニー・シュミットらが北壁を初登頂。
- 1965年8月6日、服部満彦と渡部恒明が北壁を日本人初登頂。
登山
今日では、マッターホルンの全ての斜面と尾根は、全ての季節に於いて制覇されている。現在の水準からいえば、マッターホルンは確かに技術は必要であるものの、熟練の登山家にとってはそれほど難しいわけではない。部分的に補助用ロープが張られている部分さえある。しかし、未熟な登山者による登頂、岩場からの滑落や遭難などで、年間何人かの登山者が命を落としているのが現状である。なお、三大北壁の一つに数えられる北壁ルートは、熟練者であっても困難なルートである。