スイスいアルプスはスイス・ヨーロッパアルプスのツアー専門サイトです!
スイス旅行の紹介

スイス専門各社総合旅行サイト

現地経験豊富なスタッフがご相談承ります
選びます!あなたにベストなスイスの旅
電話
03-6712-0040 お電話でもお気軽に
お問合せください
営業時間:月~金 10:00~18:00   土・日・祝休み
お問合せフォーム
ツアー選びでお悩みの方、他都市滞在や別手配など ご質問・お問合せは、専用フォームまたはお電話で
検索条件
出発地:
国:
出発日:
日数:
添乗員:
クレジットカード
ご利用できます
VISA CARD MASTER CARD

アイガー/Eiger(3,970m)

アイガー北壁

 ベルニーズアルプスの一峰でスイスを代表する山。標高は3,970m。 ユングフラウ、メンヒと並び、いわゆるオーバーランド三山の一つとされる。アイガー北壁は、高さ1800mの岩壁で、グランドジョラスの北壁、マッターホルン北壁とともに、困難な三大ルートの一つとして知られ、三大北壁と呼ばれている。1935年~1958年までに25回の登頂が試され、死者が15名に及んだものの、13回67名が登頂に成功している。

登頂歴

■1858年8月11日、チャールズ・バリントンとガイド2名が初めて登頂に成功する。

■1871年7月14日、南西稜からの登頂に成功。

■1876年7月31日、南尾根からの登頂に成功され、北東山稜だけが未踏破となる。

■1921年9月10日、日本の槇有恒の隊によって北東山稜から初登頂する。その成功はアルプス登山史上に一期を画しただけでなく、日本の登山に大きな影響を与えた。

北壁の登頂歴

■ 1934年、ドイツのW・ベックとG・レーヴィンガーが史上初のアイガー北壁挑戦を試みるも、標高2,900m付近から滑落して死亡。

■1935年8月21日、マックス・ゼドゥルマイヤーとカール・メーリンガーが北壁に挑んだが、第3雪田の上の標高3,300m付近で凍死する。それ以降、この場所は「死のビバーク」と呼ばれるようになった。

■ 1936年7月18日、ドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、オーストリアのエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーの2隊が競い、ヒンターシュトイサーが第1雪田の下の難しいトラバース(ヒンターシュトイサー・トラバース)に成功、更に死のビバークより先に登攀する。しかしアンゲラーが負傷したことから2隊は助け合いながら下山を決定、天候の悪化からビバークを余儀なくされる。7月21日、ザイルを回収してしまったことが仇となって退却できず、何とか脱出を試みるもクルツを除く3人が墜落などで相次いで死亡。クルツも救助隊の元にザイルで下りる際にカラビナにザイルの結び目が引っかかるという悲劇に見舞われ、体力を消耗仕切っていた為に結び目を外すことができず、ザイルにぶら下がったまま、7月22日、「もうダメだ」の一言を残して力尽きる。救助隊の僅か数m上であった。この事件により、ベルン州の州議会は北壁の登攀を禁止する決議を採択する(翌年、条件付きで緩和)。

■1938年7月24日、アンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルク(ドイツ人隊) ハインリッヒ・ハラー 、フリッツ・カスパレク(オーストリア人隊)がアイガー北壁初登頂。両隊は登頂開始時は別々のパーティだったが、後から登頂に挑んだドイツ人隊がオーストリア隊に追いついた時点で同一パーティを組み、初登頂に成功した。

■1963年、芳野満彦らが日本で初めてアイガー北壁に挑む。

■1965年8月16日、高田光政が日本人初登頂。 登頂まであと300mと言うところで、パートナーの渡部恒明が墜落・負傷したため救助を求める際に山頂を経由した際に達成。しかし渡部はその間に謎の墜死を遂げた。一説には骨折の痛みと孤独に耐えきれずに自らザイルを解いたとも言われている。これをもとに新田次郎は「アイガー北壁」という小説を書いている。 ? 1969年8月15日、加藤滝男・今井通子・加藤保男・根岸知・天野博文・久保進 (夏期世界初直登) 冬期直登ルートが夏場通れないため、「赤い壁」を経由、現在でも最短直登ルートとして名が残っている。加藤滝男が山頂直下でザイル無しで墜落したが運良く固定ザイルに引っかかって九死に一生を得た。

■1970年1月27日、森田勝・岡部勝・羽鳥祐治・小宮山哲夫 (アイガー北壁冬季日本人初登頂)

■1970年3月21日、遠藤二郎・星野隆男・小川信之・三羽勝・嶋村幸男・高久幸雄・深田良一(アイガー北壁冬季直登日本人初登頂 (ジョン・ハーリン・ルート)

■1977年3月9日、長谷川恒男が冬季単独初登頂。ヨーロッパのみならず、世界中の登山家を驚愕させた。

アイガーを舞台とした作品

■北壁の死闘(ボブ・ラングレー)
  主人公は前項のヒンターシュトイサー達が遭難した登山行に参加する予定であったが、恐怖心から直前になって参加を諦めた(代わりにアンゲラー達が参加したことになっている)経歴の持ち主である、という設定。主人公の回想シーンで遭難事故の状況が史実に沿った形で語られている。救助隊の目前で凍死したクルツの悲劇的な最期が詳述されている。

■アイガー・サンクション(トレヴェニアン)

■アイガー北壁(新田次郎)

■アイガー北壁(2008年のドイツ映画)

■運命を分けたザイル2(2007年のイギリス映画)
ドキュメンタリー映画であるが、前項のヒンターシュトイサーらの遭難の顛末がドラマで再現されている。

メンヒ/Monch(4,107m)

メンヒ写真

  メンヒはドイツ語で「修道士」を意味する。アイガー、ユングフラウとともにオーバーラント三山と呼ばれる。ヴァレー州とベルン州の州境に位置する。1857年8月15日にクリスチャン・アルマーらが初登頂を果たした。

ユングフラウ/Jungfrau(4,158m)

ユングフラウ写真

 ユングフラウはドイツ語で、「乙女」「処女」という意味。スイスベルン州のベルナー・オーバーラント地方にあるアルプス山脈の山で、ユングフラウ山地の最高峰である。

概要

 ユングフラウは同じ山地の他の2つの高峰であるアイガー・メンヒとともに、オーバーラント三山と呼ばれている。 初登頂は、アーラウ在住のメイヤー兄弟によって1811年に成し遂げられた。かつては登るのが難しい山であったが、現在はユングフラウ鉄道(全長9.3km)のラック式鉄道が標高3,454mのユングフラウヨッホまで運行している。この駅はヨーロッパで最も高い位置にある鉄道駅である。ヨッホとは山のピークとピークの間の鞍部を意味する。

ルート

 グリンデルヴァルトやラウターブルンネンからヴェンゲルンアルプ鉄道を利用して、クライネ・シャイデックでユングフラウ鉄道に乗り換えユングフラウへ向かう。クライネ・シャイデックを出発すると直ぐにアイガーの東側からアイガー、メンヒを貫くトンネルに入る。ここから先は終点までトンネルである。列車は北壁の内側を通過している途中のアイガーヴァント(Eigerwand:アイガーの絶壁)という北壁の裏にある高さ1m幅8mほどの展望用の窓において一度停車する。この窓はトンネル工事の際の土砂の排出や、登山者の救助のアクセスポイントとしても使用されてきた場所である。ここでは5分ほど停車するため、列車を降りて窓の外の景色を見ることができる。その後トンネルは西に向きを変えユングフラウに向かう。ユングフラウヨッホに着く前に2度目の停車がある。ここでは、窓からアイスメア(Eismeer:氷の海)を見ることができる。2回の停車時間を含めてクライネ・シャイデックからユングフラウヨッホまでの時間は50分ほどである。
 トンネルの全長は約7km、勾配は最大で250‰(パーミル:25%)である。1898年から1912年にかけて作られた。

ユングフラウヨッホ周辺

 ユングフラウヨッホのメンヒよりの場所には、トンネルを含む大きな建物ができている。そこにはスフィンクス展望台や、ホテル、「The Top of Europe」を始めとする2つのレストラン、小規模な映画館、スキー教室などの他にも、氷の彫刻のコレクションなどもある。トンネルは建物の外の雪原へと続いており、アレッチ氷河などへ徒歩で行くことも可能であり、氷河ではスキーを楽しむこともできる。

Copyright 2011 EuroSports Co.,Ltd and all rights reserved